雑渡の部下は左腕と長い間にらみ合いを続けさせられている。正確には左腕にした腕時計。今の部署に配属された時に、学生時代のOBで何かと面倒を見ていてくれた、今の上司である雑渡昆奈門にお祝いとして贈られたものだった。面倒をみたと言ってもまともには尊敬出来るようなことをしてもらったことなどはなかったが。
彼がやってくれたことと言えばファミリーレストランにて卒業レポートの手伝いと称して、甘いモカチョコレートマロンサンデーを奢らされた時のことだった。頭の回転と口の上手い、未来の、現在の上司は、的確に、実に好感高いアドバイスをくれた。それはありがたいし、結果的に講師にも自分が書いたものか怪しまれる程に良い出来だった。時間もなく清書の紙に直接書いていると言うのに、一緒に頼んだフライドポテトで、ここがどうだのと直接つついてくるのだ。油で揚げてあるフライドポテトで、用紙をそのままだ。油の跡が、紙を透かすように増えるのを、言っている事はもっともなのとココで帰られてはどうしようもないのとで何とか我慢をしていたものだった。

先々週のことだ。彼のその上司が当時付き合っていた女性と喧嘩をした。会社契約で使われてるウィルコムの、私用ではあまり使っていけないはずのケータイ電話からかかってきた真夜中二時ごろの電話。緊急業務伝令用のポケベルの方にまで入ってきていた。
明日は休日で、同期と酒を飲んで帰宅してこのまま朝までぐっすり寝たい。だけどその前に風呂に入り、眠りそうな目を擦りながら歯を磨いて、朝脱いでそのままだった白のTシャツをそのまま被って布団にダイブをした。
肩まで被った布団の温もりにうとうとと頭の隅までじんわり温かくなった時だった。壁のポールにかけたスーツの背広が振動を伝えて来た気がしてきた気もするが、判断する思考能力はもう落ちていた。鞄の中の機種変換をしたばかりのマナーにしてあるケータイ電話も揺れていたが、どうせ遅くまで飲んでいたあの酔っ払いどもだろうと無視を決め込んだ。
耳もとでウィルコムの、着信音を変えていないから初期設定の着信音のリリリリリンと鼓膜を揺るがし、頭に響く音が震動と一緒に聞こえた。何時までもなり続け、留守電に入るともう一度かけ直される。酔っ払いとは実に厄介だ。彼があのバカ共、酒の入ったままの勢いで緊急連絡に仕事用のこっちにまでかけてきやがってと、眠い頭で、怒り心頭になり、それをわざと前面に押し出してやろうとと決め、通話ボタンを押して低い声をだした。

「ふざっけんじゃねーぞ、おま・・・」
「とっとと、うちの前まで車飛ばして来いクソガキ」

一回目の連絡から30分くらい。静かにぶちキレている上司の声。

車をぶっちぎりで飛ばして、アルコールを摂取してから8時間以内、警察学校出のものがこのスピードと今、もし飲酒検問になんぞ引っ掛かれば一発のお終いだったかもしれない。しかし彼はそんなことを気にしている暇はなかった。これ以上機嫌を損ねればどうなるかわかったものではないからだ。休み明け、あの眼光鋭い目だけでホルダーの中に差し込まれたオートマチックのSIGを使わずに射殺されるかもしれない。ギブアップと叫んでいるのに、落ちるまで離してもらえなかった関節技に、彼の同僚は笑って助けてもくれなかった。
一刻も早く行く為にマンション裏のフェンスを助走をつけて飛び超えて、最上階に止められた電気の印をつけたエレベーターを横切って、全速力の三段飛ばしで目的の階まで駆けてゆく。明日は筋肉痛になるかもしれない、最後までこの速さで走れるか、そこは昔取った杵柄で息を切らしながら角部屋の二つ鍵穴のあるドアの左側に作られたインターフォンを拳でガツンと押した。
ドアを開けて出てきた上司の様にも驚いたが、2LDKの玄関から部屋までの間に散らばった酒びんの割れた跡。アンティーク調で以前きたときに美しいのだろうが良さがよくわからないが、高いことだけは分かった割れた花を生ける白い瓶と一緒に萎びれた、白と赤の名前も知らない花。荒らされたキッチンにダイニングルームにまでひっくり返った鍋に散らばる食器に白地に黒でサイケな模様の灰皿と散らばる吸いがらに足の高いイスにテーブル。疲れたように濡れたタオルを腕に巻きつけて、左側の顔にも氷の入ったスーパーのビニール袋をタオルで押さえつけてソファに座った上司におそるおそる彼は声をかけた。
「どうしたんですか、コレ」
「…男女間のサヨウナラのお話だよ」
タオルの隙間から見える、赤くなった皮膚の色を見て部下はケータイ電話を取り出した。

「とりあえず、俺呼び出す前に救急車呼んでくださいね」

頭からアツアツに沸かされ野菜ごと入った熱湯をかぶらされて部屋を荒らされ暴れられ、女癖が悪いのは知ってはいたが、さすがにあの上司でもまいっていたのかもしれない。
そんな、彼には横暴にもやたら時間にうるさい上司がいまだに約束の時間になってもやって来ない。常に約束の時間よりも10分前にやってくる把握から、20分前行動を強いられる身として、かれこれ40分以上も待たされていた。周りの後に、たかがケーキを一つテイクアウトするのに一体どのくらい時間をかければ気が済むものか、ボンヤリと車のハンドルの上に頭を乗せていた。



「オジサン!!」
木で作られた石造りの階段を上がってテラスを超えて、陽光の差し込む大きなガラスの窓から笑う女性客が見える。赤いレンガ作りの建物に植え込まれた、木の枠とステンドガラス風のシャレたドアーを開くと、上に取り付けられている来客を告げる銅の鐘をが揺れる。チリリンと鐘の音に、ノブを離し手から滑らせたドアーが閉じるとまたチンッと鳴る。何時ぞやに聞いた声が耳に入り込み雑渡は店内を見渡した。
目の前のテイクアウト用のガラス越しの、ケーキの山。飴にコーティングされ、半分に切り分けられた真赤な苺が居座る、フォークを刺せばパリッと砕ける狐色にく焦げたパイ生地の中には黒くて小さな黒い粒のバニラビーンズが混ざる淡い黄色のカスタードクリーム。この苺の上ににかかっている水飴は苺の果汁で赤くしてあるから、果肉や粒がほんのりと混ざって食紅ではないことを知っていた。その隣にある生チョコの重みのある生地に、トレーの上にも落ちるココアのパウダーがまぶされた天辺には白い生クリームを絞って、横にチョコンと飾られた苦みのあるコーヒーチョコが2粒。
それらの居並ぶケーキの後ろにいる、レジと焼き菓子の籠の前にいる少年と目が合う。肩より上に切った真っ直ぐな黒髪でなだらかな曲線描く眉に凛々しそうな顔立ちの、初めて見る少年だった。
外装と同じく木と石作りのような内装に、窓枠には白のレースのカーテンと濃いベージュの透かしの細かい遮光カーテンを二枚重ねに束に、天井はファンの回る橙の電燈がイートインスペースの、丸いテーブルの上を照らすように配置されている。ファンが静かにくるくる回るスペースでケーキを頬張っているのは女性客ばかりで今さっき聞こえた少年らしい姿は客の中には見当たらなかった。
黒の細みのストレートパンツに立ちあがった襟にネクタイをしめて袖を肘までまくっている、黒の銀ボタン3つのベストにエプロン姿。食べ残された皿とフォークを片付ける染めた茶の髪に癖毛がはねる店員に目が移った。
「ん?」
しっかりと、雑渡と目が合うと店員の少年は、そこでちょっと待っていてくださいと大きめの声をだし、大慌てでガチャガチャ皿を積み重ね厨房裏へと走るように入って行った。レジ前の黒髪の少年が、片付けるのに音はたてるなってのにとぼそりと呟く。そこへ早くも茶髪の少年が息をきらせて戻ってきた。
「すいません、あの、僕のこと覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、覚えてるよ、泣いてた坊やかな」
ニヤリと笑った雑渡に、泣いていた坊や、と言われた少年がその投げられた言葉に顔をボッと赤くさせ、その、バイトん時は本当にありがとうございましたと、少し小さな声で礼を言う。
「今度はここでバイトしているのかい?」
「そこのレジにいる立花ってのから紹介で、ココでバイトすることになったんです」
雑渡が視線を感じて横顔を前に向けると、レジに肘をついて二人を見ていた黒髪の立花というらしい少年が眉をしかめていた。
「伊作、後ろ」
後ろに並んでいた女性客に気づき、失礼、と雑渡が片手を上げて列のから外れると、店員であるはずの少年の方は慌ててすいませんとあたふたと避けた。
「僕、善法寺伊作って言います、オジサン甘いものがお好きなんですね」
「ストレス解消には甘いものがとびきり効くんだよ」
いくつかの雑渡のお気に入りの甘味処の店でも、善法寺が働くこの店は、女性客が多い。小洒落た内装に店の方針かどうか、彼や彼の友人の立花のような随分と小奇麗なギャルソンのバイトが多いせいか。ココの季節の果物を使ったタルトは砂糖でじっくりと糸引くようにコトコトと煮込み身の形が残るジャム状にしてあった。
甘いものを指すらしいスイーツ特集とやらの横文字の女性向け雑誌にも紹介されたことがあるようで、レジの後ろにも紹介記事の載った雑誌の宣伝が置かれていた。常時ならば部下にひとっ走りさせるところを、季節の変わり目自分の目で選びに来た故の縁で偶々の再会だった。
「よければ何のお礼もできないままだし、オマケするんで食べていきませんか?」
以前あった時には最後まで泣きっつらだった顔を、自分にあえて、お礼がしたいからとニコニコと嬉しそうに話す善法寺。雑渡は自分の、左腕につけた時計を見て、もうすぐ自分の部下が迎にくる時間であることを確認した。
「あっスーツだしお仕事中ですよね、すいません…」
「いや…お言葉に甘えて、せっかくだからじゃあ頂いておこうかな」
ニコリと笑ってみせた雑渡に、花咲くような顔で、ちょうど席があいたのですぐ御用意しますと懐いた子犬のように走る善法寺の背中に、立花が埃が立つから走るなよと呆れた声を追いかけさせた。それでも雑渡に向けてすいませんと笑いながら、少々お待ち下さいという立花を見ても、善法寺という少年はどうやら友人には恵まれている様子であった。


「お土産」
散々またされてクリッとした目が半眼になり座っている部下に、甘ったるい香り漂う白くて、褐色で真中に金の入ったリボンに包まれた箱で小突く。
「俺、しょっぱいもんのが好きなんすけど」
綺麗に丁寧に結ばれたリボンを乱暴に横に引き、中から白い粉砂糖のかかった細かく刻まれた苺と砂糖のジャリジャリ感残るチーズクリーム入りのシュークリームを選んでがっつくように口に入れた。わざとかどうか、キメ細かい粉砂糖まみれのシュークリームからボロボロと座席に落とすように食い散らかす。半目で何か文句がおあえりでしょうかとガツガツと口に運びながら睨んでいる。
「まさかお前その手で運転する気じゃないだろうね」
「文句がおありでしたらナプキン出して下さいよ」
ジロリと睨んでいる目に、言い返せずに口をヘの字に曲げて雑渡はケーキの横に一緒に入れられたナプキンを差し出した。淵が僅かに波打つ皿に、クルミが埋め込まれた洋酒の混じるショコラケーキ、ミツイモとリンゴのアップルパイに添えられた生クリームと栗のジェラートとバニラアイス。ランチの時間だからとゴマ生地にアボガドと海老のワサビマヨネーズピリ辛風、生ハムとチーズのサンドイッチをついたテーブルに運ばれてすっかり善法寺に食事を御馳走になってきた。その手前、腹を空かせながら車の中で待たせていたのだから悪いことをしたとバツが悪かった。挽き立てのコーヒーは香りよく2杯頂いた。
「まさかと思いますが、ここの店で可愛い子でもいたんで?」
「そう刺々しくしなくってもいいだろうよ、運命の再会のお礼を頂いてたんだから」
「ナンパした子に会って運命だなんて臭いこと言いますね、もしかして自分で足運ぶあたりナンパ目的に待たされたなんて…」
「わかったわかったよ、何が食いたいんだ」
挽肉とネギに唐辛子を片栗粉でとろみのある坦々麺、それと餃子とチャーハンでお願いしますと、手をナプキンで荒く拭いてからサイドブレーキを解除してパーキングからドライブへと移す。
「…コーヒーが美味かったからまた行こうかな」
「うわあ、遅いと思ったら中で食ってたんじゃないですか!!」
口から漏らした言葉にしまったと口を閉じるが、部下は雑渡を見ながら、俺、今夜開いてますんで夜飯もお願いしますと車を発進させた。店で飲んでいたコーヒーのだしがらを噛み潰したように雑渡は片手で了解と片手をあげた。
あんなに好意を向けられて無下にもできないし、悪いものじゃあないだろうと善法寺から自分へ向けられた顔を浮かべる。近頃と恨まれることさえあれ、裏表無く純粋に、久し振りに向けられた好意は少し気恥ずかしくも気持ちの良いものだった。