善法寺伊作が出した被害総額は既に6桁を軽く超えていた。しかし、彼が全て悪いわけではなく、運が悪かったとしか言いようもない。 引越しのバイトの途中、ロブスターだかオブザイヤーだか、エビだかよくわからないシャンパングラスの入った割れもの注意の札付きの段ボールの箱。慎重に、最上階のマンションから一階のフロントを過ぎ、下に停められたトラックの前に置こうとすれば、散歩をしていた犬に吼えられ落とした。それでも新聞に包まれたシャンパングラスはその時は無事だったのかもしれない。そこへ、一月の家賃だけで善法寺のバイトの半年分は軽く越しそうなマンションの住人に飼われているのだろう、毛をもっさりとしたアフガン犬が襲いかかる。 段ボールはガッチャンガッチャンと酷い音をさせて転がった。犬はその音に嬉しそうに暖ボールを襲い続けた。 あとはもう、散々でカチョカバラだかバカだかカバだか云うワイングラスに、よくもここまで割れものばかり、金持ちはこれだからと当てつけのようにふつふつとした怒りがわく頃には、何でこんなバイトしちゃったのか、なんて後悔で彼は無気力になっていた。 既に、バイト先の正社員はもう、怒鳴りさえしてくれない。同じくバイトの男の人にいたっては、呆れを通り越し、悲しそうに、眼を向けて「頑張れよ」と一言かけたっきり。一体、いくら請求されるのか、善法寺の頭はそれで敷き詰められていた。
事の発端は手を合わせて七松から頼まれた代理のバイトだった。 「いさっくん、いさっくん、悪ぃんだけど代わりに引越しのバイト行ってくんねえかな」 軽く引き受けた七松小平太が土曜日にいれてるガテン系のバイトは、よくよく考えなくても向いていなかった。丁度、今月ピンチだったし、昨日帰宅中寄ったゲーセンで苦労して取ったケータイについてるストラップの金具につけたキーホルダーの為に千円札を二枚崩してしまったいた。頼まれた前日、善法寺と同じくクラスメートの食満留三郎とムキになって、どうしても欲しくてたまらなかったが、よく考えればそこまで欲しかったのかと疑問になる不細工なキャラクターのキーホルダー。委員会帰りで腹も減っていて、醤油にするか豚骨にするか揉めたので所謂、家系のラーメンも食べていた。醤油豚骨の家系ラーメンはチャーシューも分厚く美味い店が駅近くにあったから。 ポケットにつっこんだケータイ電話。どうせならラーメンマンのストラップでも狙っておけばウケくらいは取れたかもしれないのに。 軽い気持ちで引き受けた引っ越屋のバイトは朝早くから集合で、二軒はしごをすると言われた。夕方4時までに終わらなければ残業分も出ると聞いていたし、一日8000円で、どうせ一日潰れるのなら全部出て残業代ももらえる方がよかったから引き受けた。 一軒目も無事に終わり、お昼ごはんをお客さんから御馳走になって三時のおやつの時間頃についたマンションの下。日が暮れ、オレンジ色した空とを反射させたビルの隙間から覗いた三分の一位の太陽が、ぐしゃぐしゃになった段ボールも染めている。ボコボコになった段ボールに影が出来て、時間なんて戻すことなんて出来ないよなあ、と自嘲気味にふふっと笑っていた。 「善法寺くん、依頼主さんと連絡付いたから君だけちょっとこのまま残っておいて」 か細い声で返事をして、他のバイトの同じ高校生や社員さんは帰ってゆく。割ってしまったモノと、その総額が額なので、これからバイト先のお偉い上の人もやってくるらしいので謝罪をしなくてはいけならなかった。いくらかは保険が効いているのか、お金で解決が出来ればいいが、どちらにせよ弁償することにはなるのだろう。マンションを囲む植込みに力無く腰をかけた。
マンションの街灯に白い明かりがついて、人も通らなくなってきたエントランスからはベージュ色した温かな光が次々に灯り出す。それぞれの一室からもカーテンの向こう側にも光が溢れる。冬に片足突っ込んだ、冷えた夜の風が吹く中、考え事をすればするほど暗くなり、当たりの色から街灯を消すより真っ暗になってしまいそうだった。そんな中、暗くなった一人だけだった善法寺の世界に、車の止まる音と共に誰かが入り込んできた。 植え込みにうずもれるように縮こまっていたので、怒られるのかと慌てて顔をあげると 「遅くなって申し訳なかったね、引越しのバイト君って君かな?」 背の高い、濃いグレーのロングコートに身を包んだ短髪の髪を軽くワックスで撫でつけた男。コートは前ボタンを閉めずにいるから下の黒いスーツにネクタイが見えるし、薄い高そうな首にかけているだけのマフラーが一緒に風ではためいた。 困ってしまった。まだ、バイト先の偉い人もついていないのに、先にお客さんの方がきてしまったのだ。怒られるのを覚悟して身構えるが緊張してきた。見るからに、大人の働く男って感じがする。腕にしてる時計も高そうなものをしていた。少し、疑問を持つならば、左目とオデコを隠すように包帯が巻かれていた。 「…もしもしー、寒いから風邪でも引いてしまったかな?」 ずずっと、心配気に、を包帯で隠れていない目にさせて、男が善法寺の顔を優しく覗きこんできた。男と目があった途端に、涙がボロボロと溢れる。善法寺の目の前にいた背の高い、大人の男が慌てだした。 「すいません…僕、いっぱいレッドロブスターのコップとか、バカバの入れ物とか、高そうな灰皿とか…割ってしまって、すいません、本当にごめんなさい、ちゃんと弁償します、だから、すいませ、すいませんすいません」 困ったことに一度流れてしまった涙はどうしようにもなく、今日一日中の緊張と、ずっと耐えてたモノが堰をきったように止まらない。鼻がむず痒くなり、目から定量オーバーの分までずるずると溢れだした。それでも、男は辛抱強く彼が落ち着くまで宥めて待った。 「はははっエビのコップじゃないんだけどね、オジサンそんな気にしてないから、泣かなくていいから、ね?」 黒い革の手袋をした手から手袋を取って、優しく茶色く染めた癖のある毛の生えた頭を、幼い子をあやすように撫でる。しゃくりあげながらすみませんとそれでも繰り返す、男にとっては自分の年の半分もいかない少年に優しく語りかけた。 「どうせ捨ててしまおうつもりものだったからいいんだよ、おかげで精々したんだから、あんな割れもの運ばせてしまって悪かったよ」 よしよしと泣き続ける善法寺を、彼のバイトの人間が来るまでずっとあやし続けた。
最後まで謝り、泣き続け、終いには目も鼻も真っ赤にしていた、高校生と言えどもまだまだ幼く、見目のいい顔だちをしていたツナギ姿の子に別れを告げて、雑渡は待機させていた車の助手席に乗り込んだ。 「お疲れ様です、あの子ずっと泣いちゃってましたねー」 運転席でハンドルを握ったままの雑渡の部下は一人、長い間始終を見ていた。 「お前があんなもんも全部箱ん中に詰めてたせいだろうが」 コートの内側に入れたシガレットケースに痛む手を伸ばす。その手が痛む元はと言える原因となった女から贈られた品々を見事選んだように、バイトの少年は壊してくれていた。別れ話であんなに揉めたのは初めてであった。顔に灰皿を投げ付けられ、頭から熱湯を被らされ、顔を庇った右手は大火傷を負ってまともに車を運転することもできずに部下に送り迎えをさせている。 「お前ぶつけるんじゃないよ、この間電柱に左側擦ってただろ」 口に煙草を銜えて、朝迎えにきたときに気づいた車の左フロントの傷を忠告した。 「こんなデカイ不便な外車なんか日本で乗るからでしょ、明日から貴方電車でそれともいらっしゃいますか?」 他の人間の乗る、あの車の独特な匂いも気に入らず、愛車のジャガーを預け、来させていたのは彼自身だった。 「ああ、本当にお前は可愛くないガキだ、あの子を少しは見習ったらどうだい」 車にエンジンがかかる。起動する音と車のライトが付き道路の上を強い光で照らしだす。ふと、雑渡が自分が先日まで住んでいたマンションの横を見るとバイトの男子高校生の子と目が、黒い窓越しに視線があった。まだ手で赤くなった鼻を拭きながらペコリとお辞儀をする少年に、銜えていた煙草を放して、窓を開けて、ニコリと笑って手を上げて軽く振った。 「また縁があったら会えるといいね」
ぐじゅぐじゅになった顔を、やっと頬を緩めて笑った高校生の男の子は随分と可愛らしく見えた。
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雑渡にオジサン言わせたかった。 多分、ゆるゆると続いてきます。最後くらいに色々と結ばれてオッサンもいい目にあえればいいなって言う。
2008.11.3
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