丁度、二年前の体育祭、パネルに大きな穴が開けていたせいで、その穴の隙間からは強い風が集中的に入り込んだ。その風の通り道に席を持った僕は、土曜の夜にテレビでやってるベタなコントみたいに風で始終髪がなびいて笑われた。秋の日差しと言えども日中の晴れ渡る空の太陽の放つ紫外線は肌の色を赤くするには十分で、暑いからと朝からジャージを膝上まで、上も袖をたくし上げてたおかげで暫く全身日焼けに苦しんだっけ。
二度目の体育祭では学習をしたつもりだ。一年生の頃から使い続けてる、ちょっと丈の短くなってペンキがついたジャージの裾を今日やっと膝上までたくし上げる。何度も洗って色あせてきたジャージについたペンキはところどころ剥がれて汚いけどもうすぐこのジャージもこの秋と冬を乗りこえればサヨウナラだ。春夏秋冬便利だし部屋着くらいには使えるかもしれない。
今年の体育祭も、青天の中始まり、途中、昼ぐらいに豪雨と雷と時折雹の見舞われながらも、棒倒しの棒が倒れて頭にデカイタンコブをこさえた僕以外は天気も収まりみんな平穏に終わった。全身を泥だらけになりながら、ボロ負けになったスコアボードを外し終わり、泥だらけの留にお疲れーとドカリと人も帰って少なくなった校庭の鉄棒の下に座り込んだ。
今年は七松や長次、潮江に立花達らの組とは離れ離れになったけど、このあと、みんなで打ち上げをこっそりしようと言う約束をしていた。未成年がアルコールなんぞ飲むんじゃねえぞ、と笑いながら後輩の頭を押さえつけてグリグリと頭を押さえつけて笑っている潮江。そんな僕らと言えば、予め徴収してた予算で七松が昨日からこっそり焼酎やらお酒の缶を社会科室の家に隠してあった。灯台もと暗し、去年もこの手を使って文化祭の打ち上げをした。
推薦で既に進学校も決まった僕や立花と違って、留や潮江はこれからそれぞれの進学校への姿勢に、七松は就活に長次は専門学校へとみんなバラバラになっていく。あれだけしょっちゅう飽きもせず喧嘩ばかしやっているくせに、留も潮江も進学する学校からその近い将来は同じ職場になたりして、なんて言ったら二人揃って冗談じゃないと唾を飛ばして怒鳴られた。結局二人とも似た者どうしだから気になって目についてしまうんじゃないかなんて言ったら今度は顔を真っ赤にしてどちらに蹴られるか分からないからコッソリ僕の中だけで吐いておいた。

三年間のうちにすっかり僕らの城と化した、あの頃は大木先生もいた社会科の準備室でみんなでそのまま酒盛りをした。だんだんと気が大きくなりツマミもなくなって大木先生が顧問をやっていた頃から伝統となっていた野菜園から野菜ををひっこ抜いてきてカレーを作った。何時もの中辛のバーモンドでニンニクがたっぷり効いて煮込んでないから具の固い肉なしカレーは懐かしい味がする。
そのあとも騒いで調子に乗っていたら、風紀取り締まりの野村先生の、誰だカレーを作ってる大バカは!!と言う声。
社会科準備室は社会科の教室からしか入れなくてまさか廊下まで匂いが漏れていたのかと、大慌てで推薦の決まってた僕と立花を四人がいいからと古くなったソファの下に埃を散らしながら隠そうとしてくれて、でもそういうわけには、と押し問答の途中でスペアの鍵を使って野村先生に突撃してきた。
僕らの顔を見て、何だお前らか…と先生がボソリと呟いて、七松が、沈黙に耐えられなくって、先生もカレー食べます?なんて呑気そうに言うから潮江が小声で馬鹿っとか顔を真っ青に留が泡吹きそうな顔してたけど、そのまま先生も一緒になってどんちゃん騒ぎになった。七松が言う前にも長次は既に先生のカレーまで装って、呆れた顔をしながらありがとうと野村先生が皿を受け取ったから。
酔った先生から出てきたのは、この城の元の主の大木先生の愚痴に今年は体育祭の年だったし留年が出るんだろうなあ、とかお前たち一週間後の期末ちゃんと出来るんだろうなとか時折チクチクする話もあったけど。ふと、これはラッキョが入っていないんだな、とか聞くから先生はらっきょお好きだったんですかと聞き返したら食いたくもないとシカメツラをした。もしかしたら大木先生がいた時にも、喧嘩ばっかしているよう見えて、二人とも一緒にこうして僕ら生徒の話とかカレーを食べながらしていたのかもしれない。
その横ででろんでろんになりかけてる近い将来の留と潮江の未来像を見た気がする。


一大行事も終わってみんなが受験勉強にいそしむ中、僕は電車を乗り継ぎ、進学する医大のための一人暮らしの先を探しにきていた。僕としては調子よく、学校の推薦の枠にも入れて何もかも上手くとんとん拍子に決まり、みんなが受験のために呪文みたいな語呂合わせを呟いたりしてる中。あちこちで単語帳の束をめくってセンターだのと騒いでるのを余所に。
昼の人もまばらにガタガタと揺れる電車の中で、人の少なさから体育祭の途中にも思い出さなかった嫌な思い出が蘇ってきた。今になれば鼻で笑えることだけど、男に痴漢する痴漢だなんて、去年の文化祭の時に一年たってようやく御茶らけて留に話すことで、やっとお笑い話にすることができた。最後にお兄さんに助けられて以来は何もない。恐怖の包帯男は疲れたあの頃の善法寺少年が見た都市伝説か何かだったのかもしれない。
山を越えて海沿いの家から進学先へは更にかけ離れ、通うにはさすがに無理だと条件付きで一人暮らしが許された。ぶっちゃけると、磯臭いあの家から出たい事もあったのでわざと今の高校よりも遠く離れた大学を選んだ。一人暮らしには、金銭的面でもどうやって両親を丸め込めようかと話を切り出したら思いのほか簡単に承諾してくれた。以前、今の家を購入するときにお世話になった某有名不動産関係の会社が。あんな不良物件みたいな家を押さえつけておいて心配はあったけど、面倒をみてくれた上に格安にしてくれるなんてありがたい話があったからだ。出来れば風呂とトイレが離れててくれた方がいいけどこの際文句は言えないので最低限で、ぼったくられないように選びたい。
親から渡された名刺とメモ通り、エレベーターに乗って、大きくて綺麗なビルの中の上にある、フロアにいた受付のお姉さんに名前を言うと、少々お待ち下さいと奥の部屋に通されてる途中、筒抜けになってる二階フロアの螺旋階段から降りてくる眉の太いお兄さんと目がった。
丸い目をもっとまん丸にして、僕の顔を見てる爽やかで清潔そうにスーツを着こなしてるお兄さん。二年前の体育祭の前日の帰り道、あの包帯男から助けてくれた、あのお兄さんの顔と一致した。
同じように目をまん丸にしてるだろう僕は、引っ張られるようにそのまま奥の部屋に通されて戻るに戻れず、ここに来る時の、今まで思い出しもしなかった予感めいたものに、虫の知らせのようなものを感じてきた。机に肘をついててを合わせて考える。今ならまだ帰れるんじゃないか。

「こんにちは、一人暮らしするんだってね伊作君」

僕の座らされてるドアの後ろから男の人が入ってきた。ドアがカチャリと閉められる音と一緒に聞き覚えのあるニコヤカな声。背後から軽やかな足取りで近づいてくる。天井に埋め込まれてる電気の光でできた男の影が僕にかかって、自然と強張ってきてる体を慰めるように、優しく頭をよしよしと抱きかかえられて、撫でられた。あの、あの大きな男の手。
向いに常識に考えて、向い側に席があるのに、また、また、僕が座ってる方に、ふかふかの柔らかいソファを沈ませて。僕は自分の組んだ手元ばかり見て座った男に対して顔をあげられない。
「御両親にもお話を通させて頂いてね」
僕の通う大学から自転車で通えそうな二駅先。駅まで徒歩五分のオートロックの物件、最上階から一個下。キッチンスペースににバストイレはもちろん別。1DKだけど随分と広い間取りだからとスラスラとしゃべる男の声が耳に入る。次々に浴びせる言葉の羅列が全部締め付けるように滑り込み、額に汗がじわりと湧いてきた。こんなもんでどうだろうと、黒いスーツの下の白いYシャツ袖の中、包帯を手首まで巻きつかせた茶にかかった肌の色した腕についた手の中。
電卓の数字は格安なんてもんじゃ、とんでもない数字を叩き出していた。電気代、水道に下水代、ガス代込。
「鉄筋だから、どんな大きな音でも、外の音も中の音も余所には響かないし、うちの物件だからね、マンションのロックのスペアもあるから」
チャリンと二つ同じ形の鍵を揺らし、一人暮らしをされることで諸々も頼まれてしまっているからと、楽しそうにスラスラと話し続ける男の声。二つあるうちの一つの鍵を手の中に握らせてきた、僕よりも濃い色の固い手。ずっと下を向いてた僕の顎をそっと掴んで上に向かせられた。ゴクリとつばを飲み込んで、決して忘れも知れない、あの包帯から覗く目。その目が細まると二重の形が浮き、その隠れていた思うよりもずっと長い綺麗な睫毛が見えた。包帯さえなければ悪くない顔なんじゃないか…
いや、忘れもしないどころか僕はずっと忘れていたんだ。
今の家に引っ越すときに。秋の不動産の決算近く、父の取引先の持つ不動産事業で、海沿いの「ちょっと」不便な物件を余らせてしまったと。風の強い日は布団を干すとしけって潮臭くなる場所はちょっとかどうかは分からないけど。丁度家を探していた僕の一家が購入してから縁の続いてるって言うあそこの。
あの、あの時一度会っていた。困った時はお互い様です良かったなんて、父や母ははまだ車に足もあるし買い物にも会社まで困らないが、こんなところから高校へと通うことを考えて仏頂面してた僕に、笑いかけていた。
「ずっと卒業するまでは待っていようとしていたんだけど何時ぞやはすまなかったね」
ドンドンと叩く音がしてあのお兄さんが心配そうに、やってきた。もう終わったからと、ニコニコと笑顔で、じゃあ、次は一緒にここを見に行こうかって。

「18歳になればもう犯罪でもなくなるんだったかな」

機嫌良く、楽しみだねえと無邪気に、呼ばれてしまったから少し失礼するよ、とヒラヒラと手を振って男が僕の隣から立ち上がった。親から出された金のかかる医大への進学と一人暮らしの絶対条件は、父の仕事先でも世話になってる取引先。

うちのマイホームを買うときにもお世話になった、名刺に書かれた雑渡昆奈門というこの男の物件にすることだった。