くたくたに疲れ果ててた頭で僕には学習能力が足りないなんて潮江に言われた言葉を思い出す。前日の雨でぬかるんでいた入学式の日の事だ。校門の前に溜まってた水溜まりがコンクリートの割れ目から溢れた土と混ざって泥溜まりになっていた。浮かれていた僕は飛び越そうと着地を失敗して滑って転んだ。ザッザッとその足を新入生として清々しく門をくぐろうとしていた潮江文次郎にぶつかってお互いに新品の学生服を汚したまま入学式へと出ることになった。初対面なのに、しょうがねえ気にするな、と言ってくれた潮江は体育館に入る前にもう一度、段差のところで同じ目に合うことになる。
先に椅子に座って待っていた留三郎が僕の顔を見るなり、ああまたかという顔をしていた。中学の入学式も卒業式も僕はまともに出れた為しがなかった。
一週間前にもあれだけの目にあっていながら僕は何故この時間帯に電車に乗って、何故この包帯男を隣に座らせて、何故こんな目にまたあうのかを考えた。

明日が体育祭当日だからと、まだ出来上がってもいない、あの、どでかいうえに風穴開いたままの絵の為に始発に乗って家を出た。母さんに弁当を作ってもらう時間がなかったものだから今日はまず、自腹で昼飯を買わなくてはならなかった。売店の空いてる朝は潰れてしまったので昼にいったら高くて不味い三食サンドしかない。卵がパサパサでツナが乾いてハムとレタスサンドはハムが抜けてて不良品だから残ってた。１０円引きしてもらったけど３１０円の三食サンドのハムの価値はもっとあるんじゃないだろうか。一緒に買った栗アンパンは上にちょこんと栗の粒が乗っていたけど肝心のアンコが入っていなかった。
家から学校がこれだけ離れているものだからバイトもロクに出来ない僕は一か月に一度、親から頂く５０００円で過ごしてる。
週刊少年ジャンプは食満が近頃めっきり見るものが減ったと言いながらも買っているしスピリッツにマガジンは潮江が買っている。ヤンジャンは七松が好きな歌手のグラビア特集を組まれてから買っていたので大体はあとこの何時ものメンツで昼飯に回していた。長次が毎週木曜日に買ってくるモーニングのあの続きが気になるけど潮江と七松はそれよりプレイボーイでも買ってこいよと愚痴を言う。
暇な時間の合間をぬって絵を一通りこの一週間で完成させ、後回しにしていたあの穴。パネルの後ろをテープで張り付けてもボンドで固めてもすぐ痕が残るし壊れてしまう。もう無理、どうでもいいよと投げかけた時に立花がバリッと絵を踏みつけた。仙ちゃんご乱心ーーーー！！と七松が笑って潮江が慌てて止めようとしたら、立花が中途半端に割れているからいかんのだ。これは穴というアートだ。半分本気とヤケになってみんなでギザギザの穴を時間をかけてカッターを使い作り、これで、もう、いいんじゃねと落ち着いた。ノコギリの存在は忘れてた。
他の色の組は、既に昼にパネルを設置終え帰っていたので自力で運んで野球部の使う白い白熱灯の明かりの中で設置した。悪くはなかった。穴の向こうに夜空と星が見える。遅くまで残る生徒の様子を見るために残って、カレーに自家栽培したラッキョを塩漬けにしたものを食いながら喋る大木先生に凝ったもん作ったもんだなぁと褒められ、偶然の産物です、なんて長次がボソッと呟いた。
そう、社会科室の先生の城で、鍋いっぱいニンニクも効いてるカレーも食べて騒いで遅くなったんだ。昨日、一昨日、先一昨日も遅くなってはいたけれど留三郎の家に内心先日の事もあり泊めてもらってたりもした。昨日は早々と一度帰宅して大丈夫だったし、もう平気だろうなんて考えていいから遠慮すんなよ、なんてまるで保護者みたいな留にありがとうと駅前で別れて。

電車の乗り換えをする時にグルリと周りを見渡して降りる人間を確認して、乗り移るホームにいる人間を確認してから電車に乗った。乗る車両にも誰にもいないことを確認してから、発車するプルルルルと言う音とドアが締まりますとアナウンスを聞いてから。
発射と同時に起きた揺れで、上の電車の明かりがちりりとちらついた。明るい車両の中から真っ暗な窓の外は見えないがまさか、あの包帯男が窓に張り付いているわけもない。端っこの席を今度は避けて、真ん中の座席の窓際を選び腰を落ち着けた。電車の中の通気をよくするため換気扇の音と走る線路の摩擦の音とガタンゴトンと揺れる音が響いている。
誰かが近づいたきたときに気づけないのが怖くて耳に形だけつけられたイヤホンに音楽を流す気にはなれなかった。ふと自分の頭の中にあの男が恐怖として占められてることに気づいて苦笑する。大丈夫、大丈夫、相手はただの人間なんだから、もう大丈夫。

…コツコツと固い靴の足音が、する。

走り出した電車の中、隣の駅につくにも時間がかかるのに何故と恐る恐る顔を上げると隣の車両からこちらの車両に映る背の高い人影。ああ、僕はバカだ、奥の車両に最初から座っていたんだじゃないかあの男は！！頭まで巻かれている包帯が見える。今日は帽子は被っていないのか耳の脇や頭部の方は短い髪の毛がぴょこぴょこと飛びだした頭が近づく。咄嗟に抱えていたデカイ荷物を自分の座る横の席に置いて、何も気づかないフリをし、窓枠の中の光が反射をして見えにくい外の景色を見る。今にも泣き出しそうな青冷めた自分の顔がいた。
薄気味悪い包帯ぐるぐる男の頭が、僕の座る座席までくるとピタリと足を止めたのが微かに窓に映る。何も見えないし聞こえないフリを続けた。古びたウォークマンの電源は切ったままだけどドクドクと心臓の音が聞こえて頭に血液が過剰に回り熱くなる。肩を強く掴まれる。振り向くのが怖くてまた寝たフリをしてしまおうか。耳鳴りまでして頭の中がキーンと痛い。目の前にあの包帯男の顔があった。ぐるりと無理やり振り向かされていた。

「君、荷物を座席に置くのはマナー違反でしょ」

あの、鋭い目線で目の奥を覗きこむように、猫撫で声で怒られた。あの時もそう、散々あんなことをされて、まるで僕が悪いようにだ。
僕の今日の荷物は２日分の洗濯物と一緒に留三郎から昼間に見れずに借りた週刊少年ジャンプ、１ℓの明日までに空にしなきゃいけないサイダーのペットボトルにペンキの落ちない体操着とジャージと学生証と２８５０円の全財産が入った財布。
「お、重いし…誰も、いな、いないか、ったから…」
自分でも舌がうまく回らず笑ってしまう位に声が震えて上手くしゃべれない。にこおっと包帯の隙間から見える目を細く尖らせて笑った男が、荷物を上の棚の上に乗せて、代わりに自分がその場所に居座った。前回と違って膝の上の荷物も無い。不安になりすっ裸で座らされているいるような気分だ。ジロジロとぶしつけに見てくる目線に耐えられなくなって僕が目をそらした。
窓枠に肘をついて後ろを向いた体の背後にぞわっと寒気がした。少し刈り込んでもらってある首筋にそっと男の手が触れてきていた。七松に髪が長いのは女みたいだと言われてムキになって短くしたのを後悔する。指の先がボンの窪から下にゆくようにスーッと辿られる。ブルッと身震いすると男は楽しそうに何度も首筋を撫でた。短い毛が生えたジョリジョリするうなじを気に入られてしまったようだ。何か言わないとこれ以上何をされるかわからない、ギギーッと油をさし忘れたブリキの人形みたいに錆びた音とぎこちない動きで包帯男に振り向く。
撫でていた手を離してはくれなかったので振り向いた時には包帯男に首筋を掴まれている状態で男に向く。目をまともに見れないので唇のあたりを見た。水分と油分が足りていなさそうなツヤの無い唇、周りの皮膚も色がよくない。この顔を覆う包帯の面積からも、その下はもしかしたら酷い怪我をしているのかもしれない。夏なんて蒸し暑い中汗もができてしまうんじゃないか、大変そうだなんて自分の立場を忘れて同情をする。
背筋にあった男の手がするりと首の動脈を撫で、ビクリと体をすくめる僕を面白がるように前に回ってくる。喉仏を捕えられて拒否したら喉を潰されるんじゃないか。ふと、潮江に言われた学習能力が足りないなんて言葉や今日一日の出来事が走馬灯の様にカラカラ回る。
ゴクン、と飲み込んだつばで動いた喉をまるで愛しい飼い猫のように優しく優しく撫でられた。だけど僕は喉を鳴らすことなんてできやしない。止めて下さい、僕は普通の男子高校生です。男に触られるたびに沸くのは恐怖だけだった。
次第に喉を撫でていた手が下に降りて開けてた第二ボタンまで開けてたＹシャツの隙間に入る。男の大きな手のひらが鎖骨を撫でて胸にまで入り込む。止めて下さい、その一言が乾いた口の中がくっついて言えない。冷たくて固い男の手の感触が、熱をもってる僕の肌にヒヤッとした。

男の向い側の席にに音をたてて青年が座った。
ドカリと勢いよく座った、ネクタイをギュッと締めて清潔そうなスーツを着こんだ爽やかそうな青年は怒っているようだった。僕に触れてる包帯男を無言で睨んでいる。助かった。本当に助かった。どこかの駅で乗り合わせたこの人が気づいてくれたんだ。
「先に車で行って待っているように頼んでおいたと思ったんだけどねぇ」
「貴方が、何をやらかしてるかわからなかったものですから」
違う、この人もお仲間だ。
きっと希望みたいなものが溢れた視線で見てた僕が絶望に変わったのに気づいたのかどうか、太めの眉を寄せて僕を見て、それから包帯男へと青年が向き合った。
「こんな未成年に貴方、いったい何してたんですが」
「何ってねえ、伊作君、ちょっとしたスキンシップじゃないか」
えええ、まさかご冗談を僕がされていることはセクハラってやつでしょう。かろうじて見える片目と口を楽しそうに歪ませてニコニコと固まったままの僕の腕に固いスーツの腕を通して幸せそうな包帯男はまるで恋人きどりだ。頭一つ分も男よりも小さい僕は、引き摺られて自分からくっついているように見えてしまうかもしれない。大体何で僕の名前を知っているんだよ。
「次の駅で降りて頂きます」
「おや、あと一駅で予定の駅のはずなんだが…それじゃあダメかい」
「２駅分歩くのならかまいませんが」
ずけずけと包帯男に言っている青年を糸を細くしたような眼でジーッと見て
「お前はほんっとうに可愛くない奴だなあ」
名残惜しげに僕の腕を、そっと頬を愛おしそうに撫でるのも忘れずに離す。電車が止まり、それじゃあ、またと会釈をして包帯男が
「変な人が多いんだから未成年がこんな時間に帰っちゃいけないよ」

その一言に僕もお兄さんも唖然とするしかなかった。